目次
「イノベーションで経済成長」というBMDの〈政策方程式〉の解を追求する中で、イノベーションのライフサイクルを俯瞰する〈政策構想図〉を手に入れました。〈イノベーション〉の過程と〈リノベーション〉の過程です。「プロダクト・イノベーション」と「プロセス・イノベーション」ということもできます。この二つは現実には時間軸上でシームレスにつながっているので本来ならひとつに結合して示すべきものですが、モデル図が大きすぎることと、分けて説明した方がわかりやすいこともあり、敢えて分割しています。
このモデルで「イノベーションという玉虫色の概念」をどこまで分析的かつ明晰に論じることができるでしょうか。これから何回かにわけて、従来から知られている様々なイノベーション論や戦略論を題材にして考えて行きたいと思います。
ワイン好きの人ならワインの分類は「赤ワイン」「白ワイン」では済まないことがお分かりだと思います。なぜ済まないかというと、例えば、赤といってもブドウ品種はカベルネ・ソーヴィニョンなのかピノ・ノワールなのか、さらに、メルローやマルベックやグルナッシュもあるしガメイもある、アメリカのジンファンデルや日本のマスカット・ベリーAもあるという具合で、確かに赤い色という共通点はあるものの、それぞれが明確に異なる味わいの文化を作り上げているので、「赤ワイン」と言われてもまだ論じる対象はほとんど規定されていないも同然だからです。
「イノベーション」という概念も「赤ワイン」程度の精度しかもたない概念であり、まじめに論じるためには、コンセプト・イノベーション、プロダクト・イノベーション、ビジネス・イノベーション、そして日常のイノベーションを区別しなければならないことを、以下の説明で納得していただこうというわけなのです。また、あとで説明することになりますが、〈イノベーション〉と〈リノベーション〉も区別しなければなりません。
¶E・ロジャースの「イノベーションの普及過程」研究 〖 ⭱ 〗
イノベーションと言えば?反射的に「創造的破壊のシュムペーター」と来るところかも知れませんが、今日の経営者にとって身近なのはE・ロジャースの「イノベーションの普及過程」でしょう。斬新な新製品の普及計画について「イノベーター層にどうやってリーチするか」などと、ロジャースのモデルで論じる人も(その妥当性はともかく)多いのではないでしょうか。そこで、まず最初に、ロジャースが注目したイノベーションを取り上げます。二つあり、ひとつはハイブリッド・コーン、もうひとつはドボラック(Dvorak)キーボード配列です。
ハイブリッド・コーンは、おそらくロジャースを普及過程の研究に導く切っ掛けとなった事例ではないかと思われます。アイオワ州立大学で農村社会学の研究者だったロジャースは、以前の記事に書いたとおり、ライアンとグロスの実地調査をふまえて、アイオワ州のトウモロコシ農家がハイブリッド・コーンを採用するプロセスを、あの余りにも有名なイノベーション受容5類型の静的モデルで説明したのでした。
普及過程とはBMDの〈イノベーション〉のライフサイクルの最終段階のことであり、〈普及過程品〉が〈日常品〉として定着するまでの{経済主体:新製品を日常の中に組み込むイノベーション}のことです。一般的にイノベーションというとメーカーが革新的な技術を開発するイメージを持ちがちですが、それだけでは不十分で、最終的には、消費者などの経済主体がそれを日常の中に組み込んで新しい日常を再構成することなのです。それこそが経済社会の中に新しい〈日常品〉がひとつ増えるか増えないかの分かれ目ですから、イノベーションのライフサイクルの中でもひときわ重要なフェーズです。
しかし、経営の立場から眺めると、普及過程はイノベーションの始まりでも終わりでもなく通過点にすぎません。マネジメントは〈イノベーション〉から〈リノベーション〉までの全体に目配りをする必要があります。そこで、われわれも視野を普及過程の前後のフェーズにまで広げて、ハイブリッド・コーンというイノベーションの源流から今日にいたるまでを、BMDの〈政策構想図〉のフレームワークの中にマッピングしてみましょう。
ひとつ注意していただきたいのは、以下で論じる〈イノベーション〉の大部分はハイブリッド・コーンの種子製品の開発・生産・流通販売という種子メーカー側の話だということです。
筆者はハイブリッド・コーンという農業技術や業界について全くの素人ですので、以下の記述は、文末にリストアップしたいくつかの専門文献を覗き見して拾った情報に基づいています。
¶ハイブリッド・コーンをメンデルの法則で理解する 〖 ⭱ 〗
ハイブリッド・コーンとは何者かというと、遺伝学的には一代雑種(F1)さらにF1とF1の雑種(ダブル・クロス)も含めたトウモロコシ品種一般を指します。昔ながらの純系選抜の品種に比べると、収量が目に見えて多い、草丈も実も大きく揃っている、茎がしっかりしている、病害虫に強い、干ばつに耐える等々の好ましい「雑種強勢:hybrid vigor」の形質を示す品種です。栽培農家は、毎年、F1として作られた種子を専門メーカーなどから購入し、栽培して目的の農産物を得ます。しかし、そこに自然に自家受粉して実ったF2の種子を翌年に蒔いて利用することはありません。F2の種子からは確実に劣化したトウモロコシしか得られないからです。
世の中にはハイブリッド・コーンのことを、農家に毎年種子を買わせようという種子メーカーの陰謀的な戦略だと曲解する人もいるようですが、全くの誤解です。F1はメンデルの法則を応用した純粋に科学的な交配技術であり、マーケティング技術にも見えるのはあくまでも結果論です。
そもそもハイブリッド・コーンとは、科学的にはどのように説明されるのでしょうか。じつはその説明理論自体が当初は仮説的なものでしかなく、この〈イノベーション〉とともに科学的な発展を遂げ、今日ではゲノム編集などの遺伝子工学にまで至っています。しかし〈試作品〉から〈日常品〉に至るまでの〈イノベーション〉を可能にした〈実現技材〉は以下に述べる古典的なメンデルの法則の範囲に十分に収まっています。遺伝子工学は〈リノベーション〉段階でも近年になって導入された〈実現技材〉と位置づけられます。
そこでまずはメンデルの第1法則です。「分離の法則」とも言われます。生物の子の遺伝子は母からもらった因子と父からもらった因子の二つの因子からなります。因子には優性(dominant)と劣性(recessive)があり、子の形質は優性因子によって決まります。この「優劣」は、優れているとか劣っているということではなく、形質として表に顕在化するか、それとも潜在化するかの違いを意味するだけです。例えば、背が高いという因子をT、低いをtで表すなら、実際に背が高い人の遺伝子はTを二つ揃えたホモ接合型(homozygot)のTTまたは一つだけのヘテロ接合型(heterozygot)のTtであり、低い人の遺伝子はtのホモ接合型のttだけです。TTの父とttの母から生まれるF1世代の子は(T, T)✖(t, t)={(T, t)(T, t)(T, t)(T, t)}という組み合わせが生じるという理屈で100%Ttになりますから必ず背が高くなります。さらに、ともにTtであるF1同士が交配してできるF2世代は(T, t)✖(T, t)={(T, T)(T, t)(t, T)(t, t)}となり、75%は高く、25%は低くなります。そして、メンデルの第2法則は、ひとつの形質を支配する遺伝子は、他の形質を支配する遺伝子の存在から影響を受けることなく、完全に独立に第1法則にしたがうというものです。
この原理を前提とすると、交配の結果としてある望ましい形質Gを100%実現したければ、一方の親の遺伝子がGGであれば、もう片方の親の遺伝子はどうでもよくなります。また望ましくない形質Bを100%不顕在にするためには両親の遺伝子はともにbbでなければならないことが分かります。
以下、ハイブリッド・コーンの〈イノベーション〉のプロセスを確認して行きます。
¶ハイブリッド・コーンの{発明家:コンセプト・イノベーション} 〖 ⭱ 〗
{発明家:コンセプト・イノベーション}
まず、誰がどんなコンセプト・イノベーションを成し遂げたのか、を見ましょう。
19世紀から20世初頭にかけての時代に、植物や動物の品種改良は、好ましい形質の親を選抜して次世代を作って行く純系選抜を繰り返すことで成果を上げていました。ところがこの手法をトウモロコシ(Indian corn)に適用するとなぜかうまく行かずに却って収量などの品質が劣化するという現象が知られていました。
これについて、1908年ワシントンDCで開かれた米国育種家協会の報告会で、ニューヨーク州ロングアイランドのコールド・スプリング・ハーバー研究所のG・H・シャルは、数年にわたる実験栽培を踏まえて、自家受粉や近親交配そのものがいけないのだとする俗説を否定し、劣化現象は、その背後で働いているメンデル的な原理で説明できるし、まったく同じ論理で、クロスで交配すれば一代でいきなり望ましい形質が「雑種強勢」(hybrid vigor)として得られることを実証的に説明したのでした。そしてシャルは、トウモロコシの栽培家は旧来の純系選抜による品種改良をやめてハイブリッドを検討してみてはどうかと明確に述べたのです。シャルとほとんど同じ時期にコネティカット農業試験場で連続自殖の効果を調べる実験栽培をしていたE・M・イースト(1909年からハーバード大学)も漠然と自殖と裏返しの雑種強勢にも気づいており、シャルの発表を会場で聴き驚いてすぐに手紙を書いています。
この時、純系を追い求めていたこの業界に、真逆の方向転換を促がす「ハイブリッド・コーン」という革新的なコンセプトが生まれたと言えます。当時の人々にとって、まさにコンセプト・イノベーションというにふさわしい出来事でした。後々のハイブリッド品種の劇的な広がりを知ったうえで言えば、トーマス・クーンの言うパラダイム・シフトが起きた瞬間だったとも言えます。
しかし、シャルの〈試作品〉が十分な説得力を持っていたかというと、ひとつ問題がありました。栽培農家にF1種子を潤沢に供給できるかどうか疑問があったのです。F1の親として交配させる品種は、同一系統内での交配を繰り返すことで多くの原始的な形質の因子をホモ接合型として持つように改良したものですが、イーストの実験では、種子の生産力が低いことが明らかだったのです。それはF1種子が高くつくことを意味します。だとすると、農家にとってたとえトウモロコシの収量が増えたとしても経済的メリットが少ないかも知れない。イーストはこの点にこだわって、シャルの発明はまだ未完成だと考えていたのです。
シャルが考えた問題含みのハイブリッドは正確にいうと二つの純系の交配によるシングル・クロス・ハイブリッドでした。そこで、イーストのもとで学ぶ大学院生だったD・F・ジョーンズは、その解決策として2系統の異なるシングル・クロスを両親として交配するダブル・クロス・ハイブリッドでもいいのではないかという妥協案を考えたのでした。こうすると、シングル・クロスはF1ですから収量が多く種子が大量にとれるので、その交配であるダブル・クロスのコストは安くて済みます。ちなみに、ダブル・クロスは系統が異なる二つのF1を交配するわけですから同系統の雑種2代であるF2とは異なります。ダブル・クロスになると形質の統一感や品質は若干落ちますが、旧来の品質に比べたらはるかにましだという提案でした。実際、このダブル・クロスこそが、商業的なハイブリッド・コーンの〈試作品〉として世に出たのでした。
こういう経緯があるので、ハイブリッド・コーンの発明者はシャルとイーストの二人とされています。
【未市場化ニーズ】
そもそも当時のトウモロコシ栽培農家はどんな困った問題を抱えていたのかと言えば、ひとつには収量の長期低迷でした。自家採取しても種子商人から「改良品種」を買っても、何十年にもわたって状況は変わりませんでした。その停滞を解消してくれる解決策は市場化されておらず、どの店に行っても答えは売っていなかったのです。それどころか実験室にも解は無かったのですが。
シャルは実験圃場で、ハイブリッド・コーンの列と従来型の自家受粉のコーンの列の組み合わせをセットにして品種を変えて複数のセットを栽培しました。それを眺めると、ハイブリッドの方は、どの列も背丈や形や勢いが揃っていて見るからに美しい統一感があるのに対して、自家受粉の方はそうい美しさがないうえに列毎に固有の特徴が明らかだったと書いています。これは自家受粉といっても十分に形質を選抜してコントロールされた自家受粉での話です。当時の一般的なトウモロコシ畑では多彩な系統が混在しており、ランダムな放任受粉が起きるに任せていたので、さまざまな形質をもったトウモロコシが一緒くたになって育っていたはずです。品質が揃わない畑では商業的な生産性が上がるべくもなく、それが放任受粉コーンの長年の問題でした。
【実現技材】
ハイブリッド・コーンという〈コンセプト・イノベーション〉を可能にした〈実現技材〉:Enabling Technologies and Materialsはメンデルの法則でした。
メンデルの法則は1900に「再発見」されていたので、1908年までには、シャルのような研究者の間では広く知られていたと考えてよいでしょう。鵜飼(6)から引用します:
¶〈試作品〉から〈新製品〉を生み出す{起業家:プロダクト・イノベーション} 〖 ⭱ 〗
{起業家:プロダクト・イノベーション}
ダブル・クロスを確立したイーストとジョーンズは1919年にフィラデルフィアの出版社リッピンコットから実験生物学叢書の一冊として「自殖と他殖:その遺伝的・社会的意義」 "Inbreeding and Outbreeding: Their Genetic and Sociological Significance"と題する写真やイラスト入り320頁の本を出版しました。2020年現在、すでに著作権が切れてパブリックドメインになっていますので、興味深い図版を3枚引用します。いずれも当時の農業関係者が驚きをもって眺め、ハイブリッド技術への期待をおおいに膨らませたであろうことが想像できます。
11世代にわたって自殖を重ねて形質がみすぼらしく劣化した二系統の親たちの間に生まれるF1が驚くべき堂々たる立派な形質を発現することを示しています。つまりF1を作る元になる親の種子を大量に生産するのは難しいことを示しています。
これはF1のトウモロコシがいかに実のサイズも草丈も均一になるかをまざまざと示しています。だからF1の種子は大量に生産できるのです。
そしてこれは異なる系統の二つのF1の間に誕生するダブルクロスでもF1にさほど見劣りしないことを示しています。これぞ現実的なハイブリッド・コーンだというわけです。
ダブル・クロスのハイブリッド・コーンなら種子を大量に生産してトウモロコシ農家に手頃な価格で売ることができるはずだ、ということで起業家たちがうごめき始めて、まずはダブル・クロスの種子の製品化競争が始まります。久野(8)に掲載されている「米国におけるトウモロコシ種子会社の設立・再建件数(1925~95年)」のグラフの一部分を再構成して以下に示します。1935年までに100社もの種子会社が創業していることがわかります。
ネブラスカ州のホーゲマイヤー・ハイブリッド社のトーマス・ホーゲマイヤ博士がまとめた資料(4)では、真っ先に動き出した起業家:Entrepreneursとして以下のような名前を挙げています。
1920:Henry A. Wallace→1926:Pioneer Hi-Bred社設立
1925:Roberts & Gunn—DeKalb Agricultural Association
1925:Holbert & Funk Brothers Seed Company→1934:ハイブリッド種子発売
1925:Lester Pfister→1936 Pfister Seed社設立
この中でもHenry A. Wallace:ヘンリー・ウォレスがハイブリッド・コーンのベンチャー第一号だったことは衆目の一致するところです。
農場経営の家庭に育ったウォレスは高校時代からトウモロコシの栽培に興味をもち、1910年にアイオワ州立大学を卒業するや統計学や遺伝学の知識を生かした科学的な品種改良実験を開始します。1920年にコネティカット農業試験場のイーストとジョーズを訪問したのを切っ掛けにハイブリッド・コーンの育種を始めます。まさに「発明家」から「起業家」にバトンがリレーされた瞬間でした。1923年にはCopper Cross:コッパー・クロスと名付けた高収量のハイブリッド・コーンの開発に成功し、1924年に州のトウモロコシ収量コンテスト(Iowa Corn Yield Tests)でハイブリッドとしては初の金賞を獲得するのです。(この段落は主に後にウォレスが創立するパイオニア社のWebサイトより要約引用)
以下はおもにSutch(7)によりますが、そもそもアイオワ州の収量コンテストは1920年にウォレスが州政府を口説いて始まったコンテストでした。それまではトウモロコシの実の美形コンテストだったのをエーカー当りの収量コンテストに改めさせたのでした。とはいえ、ウォレス自身の実績は、1920年は種子の量が足りずに不参加、21年は放任受粉品種に負け、22年と23年は新作のコッパー・クロスで臨むもやはり放任受粉品種のベストには及ばず苦戦が続きます。そして1924年についに金賞受賞となり、Iowa Seed Companyと販売契約を締結し、わずか15ブッシェルですがハイブリッド種子をアイオワなどの農家に米国で初めて販売したのでした。
ウォレスは、1921年に父や祖父のあとを継いでWallaces’ Farmerというトウモロコシ農家と養豚家向けの新聞の編集長に就任し、発行部数65,200(1920年)の力で、早くからハイブリッド・コーンの素晴らしさを熱心に訴え続けていたといいます。
コッパー・クロスを発売した時に自分で書いた宣伝文句もまさに熱狂的でした:
1926年には今日にまで続くPioneer Hi-Bred:パイオニア・ハイ・ブレッド社(今はデュポン・パイオニア)を設立しています。ウォレスは後に父Henry C. Wallace(農務長官1921-1924)同様に政界に転出し農務長官・商務長官を経てフランクリン・ルーズベルト大統領のもとで副大統領を務めた点でも異色の起業家でした。
ダブル・クロスのハイブリッド・コーンの種子生産が本格的な産業になったのは意外に遅く約10年後の1936年以降だったと考えられています。以前引用した経済学者グリリカスのグラフもその判定を裏付けているように見えます。
Sutch(7)は普及がすぐには立ち上がらなかった原因を幾つかあげています。一つ目は、価格でした。ウォレスのコッパー・クロスの値段が(特別な種子なのだということを農家に信じてもらうために意図的に)驚くほど高く設定されたのです。ハイブリッドの研究開発投資の資金を得るという名目もあったとはいえ。二つ目は、旧来の慣習を捨てる抵抗感です。トウモロコシ農家は自前の種子を使うか、あるいは、たまになじみの種子商人から買うという長年の慣習にどっぷり漬かっており、ハイブリッドに乗り換えると毎年種子を仕入れなければならないことに抵抗感があったこと。実った種子を翌年に蒔いてはダメというのは特に受け容れがたかったこと。さらに、自家採取した種子から優れたもの選別して見せることが栽培家としてのプライドだったのに、その作業はもういらないと言われて不愉快だったこと。そういう慣れ親しんだ過去と決別するのが辛かったということです。三つ目は、メンデルの法則などの科学的理屈が当時の農民や種子商人の常識では理解できなかったこと。
1929年からの大恐慌もハイブリッドの普及には大きな抵抗になりました。トウモロコシ価格の下落が農場経営を追い詰め、新品種への転換を考える余裕を奪います。
もうひとつ、アイオワ州においては放任受粉のトウモロコシでも意外に生産性が高かったこともハイブリッドの普及の突破口が開けない原因になっていました。
ウォレスが提唱して始まったアイオワ州の収量コンテストの1926年から1933年までの記録(上の表:Sutch(7)から引用)を見ると、ハイブリッドの優位性はほぼ9%にとどまっています。15%~20%という謳い文句はこの期間においては明らかに誇張でした。これに種子価格の値段の高さを加味すると、経済的メリットはさほど大きくなかったと考えられるのです。
しかしこの助走期間は、その後の業界が離陸するための仕込み期間だったとも言えます。純系を商品化するには最低でも4-5年かかると言われます。多様な純系資産の上にF1資産を開拓し「原々種」(Foundation seeds)として蓄積するのにも長い年月が必要なのです。
¶主な参照文献 〖 ⭱ 〗
(1)遺伝学の泰斗J・F・クロー(James F. Crow)が1998年に米国遺伝学会のGENETICS誌に寄稿した「90年前:ハイブリッド・コーンの始まり」("90 Years Ago: The Beginning of Hybrid Maize" GENETICS March 1, 1998 vol. 148 no. 3 923-928)
(2)George Harrison Shull “The composition of a field of maize” Am. Breeders Assoc. Rep. 4: 296–301 (1908)
(3)J・F・クロー「遺伝学概説 第8版」(木村資生・太田朋子 共訳 1991年)
(4)Thomas Hoegemeyer "History of the US Hybrid Corn Seed Industry"
(5)East, E. M., and D. F. Jones, 1919"Inbreeding and Outbreeding: Their Genetic and Sociological Significance". Lippincott, Philadelphia
(6)鵜飼保雄「植物改良への挑戦[メンデルの法則から遺伝子組換えまで]」2005年
(7)Richard Sutch "The Impact of the 1936 Corn Belt Drought on American Farmers’ Adoption of Hybrid Corn", May 2011
(8)久野秀二「アグリビジネスと遺伝子組換え作物―政治経済学アプローチ」2002年
(9)USDA "The Seed Industry in U.S. Agriculture: An Exploration of Data and Information on Crop Seed Markets, Regulation, Industry Structure, and Research and Development" 2004
(10)Pioneer社webサイト "History of Pioneer"
(11)William L. Brown "H. A. Wallace and the Development of Hybrid Corn" 1983
¶E・ロジャースの「イノベーションの普及過程」研究
¶ハイブリッド・コーンをメンデルの法則で理解する
¶ハイブリッド・コーンの{発明家:コンセプト・イノベーション}
¶〈試作品〉から〈新製品〉を生み出す{起業家:プロダクト・イノベーション}
¶主な参照文献
「イノベーションで経済成長」というBMDの〈政策方程式〉の解を追求する中で、イノベーションのライフサイクルを俯瞰する〈政策構想図〉を手に入れました。〈イノベーション〉の過程と〈リノベーション〉の過程です。「プロダクト・イノベーション」と「プロセス・イノベーション」ということもできます。この二つは現実には時間軸上でシームレスにつながっているので本来ならひとつに結合して示すべきものですが、モデル図が大きすぎることと、分けて説明した方がわかりやすいこともあり、敢えて分割しています。
このモデルで「イノベーションという玉虫色の概念」をどこまで分析的かつ明晰に論じることができるでしょうか。これから何回かにわけて、従来から知られている様々なイノベーション論や戦略論を題材にして考えて行きたいと思います。
ワイン好きの人ならワインの分類は「赤ワイン」「白ワイン」では済まないことがお分かりだと思います。なぜ済まないかというと、例えば、赤といってもブドウ品種はカベルネ・ソーヴィニョンなのかピノ・ノワールなのか、さらに、メルローやマルベックやグルナッシュもあるしガメイもある、アメリカのジンファンデルや日本のマスカット・ベリーAもあるという具合で、確かに赤い色という共通点はあるものの、それぞれが明確に異なる味わいの文化を作り上げているので、「赤ワイン」と言われてもまだ論じる対象はほとんど規定されていないも同然だからです。
「イノベーション」という概念も「赤ワイン」程度の精度しかもたない概念であり、まじめに論じるためには、コンセプト・イノベーション、プロダクト・イノベーション、ビジネス・イノベーション、そして日常のイノベーションを区別しなければならないことを、以下の説明で納得していただこうというわけなのです。また、あとで説明することになりますが、〈イノベーション〉と〈リノベーション〉も区別しなければなりません。
¶E・ロジャースの「イノベーションの普及過程」研究 〖 ⭱ 〗
イノベーションと言えば?反射的に「創造的破壊のシュムペーター」と来るところかも知れませんが、今日の経営者にとって身近なのはE・ロジャースの「イノベーションの普及過程」でしょう。斬新な新製品の普及計画について「イノベーター層にどうやってリーチするか」などと、ロジャースのモデルで論じる人も(その妥当性はともかく)多いのではないでしょうか。そこで、まず最初に、ロジャースが注目したイノベーションを取り上げます。二つあり、ひとつはハイブリッド・コーン、もうひとつはドボラック(Dvorak)キーボード配列です。
ハイブリッド・コーンは、おそらくロジャースを普及過程の研究に導く切っ掛けとなった事例ではないかと思われます。アイオワ州立大学で農村社会学の研究者だったロジャースは、以前の記事に書いたとおり、ライアンとグロスの実地調査をふまえて、アイオワ州のトウモロコシ農家がハイブリッド・コーンを採用するプロセスを、あの余りにも有名なイノベーション受容5類型の静的モデルで説明したのでした。
普及過程とはBMDの〈イノベーション〉のライフサイクルの最終段階のことであり、〈普及過程品〉が〈日常品〉として定着するまでの{経済主体:新製品を日常の中に組み込むイノベーション}のことです。一般的にイノベーションというとメーカーが革新的な技術を開発するイメージを持ちがちですが、それだけでは不十分で、最終的には、消費者などの経済主体がそれを日常の中に組み込んで新しい日常を再構成することなのです。それこそが経済社会の中に新しい〈日常品〉がひとつ増えるか増えないかの分かれ目ですから、イノベーションのライフサイクルの中でもひときわ重要なフェーズです。
しかし、経営の立場から眺めると、普及過程はイノベーションの始まりでも終わりでもなく通過点にすぎません。マネジメントは〈イノベーション〉から〈リノベーション〉までの全体に目配りをする必要があります。そこで、われわれも視野を普及過程の前後のフェーズにまで広げて、ハイブリッド・コーンというイノベーションの源流から今日にいたるまでを、BMDの〈政策構想図〉のフレームワークの中にマッピングしてみましょう。
ひとつ注意していただきたいのは、以下で論じる〈イノベーション〉の大部分はハイブリッド・コーンの種子製品の開発・生産・流通販売という種子メーカー側の話だということです。
筆者はハイブリッド・コーンという農業技術や業界について全くの素人ですので、以下の記述は、文末にリストアップしたいくつかの専門文献を覗き見して拾った情報に基づいています。
¶ハイブリッド・コーンをメンデルの法則で理解する 〖 ⭱ 〗
ハイブリッド・コーンとは何者かというと、遺伝学的には一代雑種(F1)さらにF1とF1の雑種(ダブル・クロス)も含めたトウモロコシ品種一般を指します。昔ながらの純系選抜の品種に比べると、収量が目に見えて多い、草丈も実も大きく揃っている、茎がしっかりしている、病害虫に強い、干ばつに耐える等々の好ましい「雑種強勢:hybrid vigor」の形質を示す品種です。栽培農家は、毎年、F1として作られた種子を専門メーカーなどから購入し、栽培して目的の農産物を得ます。しかし、そこに自然に自家受粉して実ったF2の種子を翌年に蒔いて利用することはありません。F2の種子からは確実に劣化したトウモロコシしか得られないからです。
世の中にはハイブリッド・コーンのことを、農家に毎年種子を買わせようという種子メーカーの陰謀的な戦略だと曲解する人もいるようですが、全くの誤解です。F1はメンデルの法則を応用した純粋に科学的な交配技術であり、マーケティング技術にも見えるのはあくまでも結果論です。
そもそもハイブリッド・コーンとは、科学的にはどのように説明されるのでしょうか。じつはその説明理論自体が当初は仮説的なものでしかなく、この〈イノベーション〉とともに科学的な発展を遂げ、今日ではゲノム編集などの遺伝子工学にまで至っています。しかし〈試作品〉から〈日常品〉に至るまでの〈イノベーション〉を可能にした〈実現技材〉は以下に述べる古典的なメンデルの法則の範囲に十分に収まっています。遺伝子工学は〈リノベーション〉段階でも近年になって導入された〈実現技材〉と位置づけられます。
そこでまずはメンデルの第1法則です。「分離の法則」とも言われます。生物の子の遺伝子は母からもらった因子と父からもらった因子の二つの因子からなります。因子には優性(dominant)と劣性(recessive)があり、子の形質は優性因子によって決まります。この「優劣」は、優れているとか劣っているということではなく、形質として表に顕在化するか、それとも潜在化するかの違いを意味するだけです。例えば、背が高いという因子をT、低いをtで表すなら、実際に背が高い人の遺伝子はTを二つ揃えたホモ接合型(homozygot)のTTまたは一つだけのヘテロ接合型(heterozygot)のTtであり、低い人の遺伝子はtのホモ接合型のttだけです。TTの父とttの母から生まれるF1世代の子は(T, T)✖(t, t)={(T, t)(T, t)(T, t)(T, t)}という組み合わせが生じるという理屈で100%Ttになりますから必ず背が高くなります。さらに、ともにTtであるF1同士が交配してできるF2世代は(T, t)✖(T, t)={(T, T)(T, t)(t, T)(t, t)}となり、75%は高く、25%は低くなります。そして、メンデルの第2法則は、ひとつの形質を支配する遺伝子は、他の形質を支配する遺伝子の存在から影響を受けることなく、完全に独立に第1法則にしたがうというものです。
この原理を前提とすると、交配の結果としてある望ましい形質Gを100%実現したければ、一方の親の遺伝子がGGであれば、もう片方の親の遺伝子はどうでもよくなります。また望ましくない形質Bを100%不顕在にするためには両親の遺伝子はともにbbでなければならないことが分かります。
以下、ハイブリッド・コーンの〈イノベーション〉のプロセスを確認して行きます。
¶ハイブリッド・コーンの{発明家:コンセプト・イノベーション} 〖 ⭱ 〗
{発明家:コンセプト・イノベーション}
まず、誰がどんなコンセプト・イノベーションを成し遂げたのか、を見ましょう。
19世紀から20世初頭にかけての時代に、植物や動物の品種改良は、好ましい形質の親を選抜して次世代を作って行く純系選抜を繰り返すことで成果を上げていました。ところがこの手法をトウモロコシ(Indian corn)に適用するとなぜかうまく行かずに却って収量などの品質が劣化するという現象が知られていました。
これについて、1908年ワシントンDCで開かれた米国育種家協会の報告会で、ニューヨーク州ロングアイランドのコールド・スプリング・ハーバー研究所のG・H・シャルは、数年にわたる実験栽培を踏まえて、自家受粉や近親交配そのものがいけないのだとする俗説を否定し、劣化現象は、その背後で働いているメンデル的な原理で説明できるし、まったく同じ論理で、クロスで交配すれば一代でいきなり望ましい形質が「雑種強勢」(hybrid vigor)として得られることを実証的に説明したのでした。そしてシャルは、トウモロコシの栽培家は旧来の純系選抜による品種改良をやめてハイブリッドを検討してみてはどうかと明確に述べたのです。シャルとほとんど同じ時期にコネティカット農業試験場で連続自殖の効果を調べる実験栽培をしていたE・M・イースト(1909年からハーバード大学)も漠然と自殖と裏返しの雑種強勢にも気づいており、シャルの発表を会場で聴き驚いてすぐに手紙を書いています。
この時、純系を追い求めていたこの業界に、真逆の方向転換を促がす「ハイブリッド・コーン」という革新的なコンセプトが生まれたと言えます。当時の人々にとって、まさにコンセプト・イノベーションというにふさわしい出来事でした。後々のハイブリッド品種の劇的な広がりを知ったうえで言えば、トーマス・クーンの言うパラダイム・シフトが起きた瞬間だったとも言えます。
しかし、シャルの〈試作品〉が十分な説得力を持っていたかというと、ひとつ問題がありました。栽培農家にF1種子を潤沢に供給できるかどうか疑問があったのです。F1の親として交配させる品種は、同一系統内での交配を繰り返すことで多くの原始的な形質の因子をホモ接合型として持つように改良したものですが、イーストの実験では、種子の生産力が低いことが明らかだったのです。それはF1種子が高くつくことを意味します。だとすると、農家にとってたとえトウモロコシの収量が増えたとしても経済的メリットが少ないかも知れない。イーストはこの点にこだわって、シャルの発明はまだ未完成だと考えていたのです。
シャルが考えた問題含みのハイブリッドは正確にいうと二つの純系の交配によるシングル・クロス・ハイブリッドでした。そこで、イーストのもとで学ぶ大学院生だったD・F・ジョーンズは、その解決策として2系統の異なるシングル・クロスを両親として交配するダブル・クロス・ハイブリッドでもいいのではないかという妥協案を考えたのでした。こうすると、シングル・クロスはF1ですから収量が多く種子が大量にとれるので、その交配であるダブル・クロスのコストは安くて済みます。ちなみに、ダブル・クロスは系統が異なる二つのF1を交配するわけですから同系統の雑種2代であるF2とは異なります。ダブル・クロスになると形質の統一感や品質は若干落ちますが、旧来の品質に比べたらはるかにましだという提案でした。実際、このダブル・クロスこそが、商業的なハイブリッド・コーンの〈試作品〉として世に出たのでした。
こういう経緯があるので、ハイブリッド・コーンの発明者はシャルとイーストの二人とされています。
【未市場化ニーズ】
そもそも当時のトウモロコシ栽培農家はどんな困った問題を抱えていたのかと言えば、ひとつには収量の長期低迷でした。自家採取しても種子商人から「改良品種」を買っても、何十年にもわたって状況は変わりませんでした。その停滞を解消してくれる解決策は市場化されておらず、どの店に行っても答えは売っていなかったのです。それどころか実験室にも解は無かったのですが。
シャルは実験圃場で、ハイブリッド・コーンの列と従来型の自家受粉のコーンの列の組み合わせをセットにして品種を変えて複数のセットを栽培しました。それを眺めると、ハイブリッドの方は、どの列も背丈や形や勢いが揃っていて見るからに美しい統一感があるのに対して、自家受粉の方はそうい美しさがないうえに列毎に固有の特徴が明らかだったと書いています。これは自家受粉といっても十分に形質を選抜してコントロールされた自家受粉での話です。当時の一般的なトウモロコシ畑では多彩な系統が混在しており、ランダムな放任受粉が起きるに任せていたので、さまざまな形質をもったトウモロコシが一緒くたになって育っていたはずです。品質が揃わない畑では商業的な生産性が上がるべくもなく、それが放任受粉コーンの長年の問題でした。
【実現技材】
ハイブリッド・コーンという〈コンセプト・イノベーション〉を可能にした〈実現技材〉:Enabling Technologies and Materialsはメンデルの法則でした。
メンデルの法則は1900に「再発見」されていたので、1908年までには、シャルのような研究者の間では広く知られていたと考えてよいでしょう。鵜飼(6)から引用します:
米国におけるメンデリズムの普及に大きく貢献したのは、第一に、一九〇二年八月三十日から九月二日までニューヨーク市で開かれた植物育種と交雑についての国際会議であった。集まった育種家や園芸家たちはここではじめてメンデルの名を知り、メンデリズムが交雑による品種改良に非常に役立つ原理であることを知った。会議で主役を演じたのは、英国からきたベーツソンであった。彼は「遺伝における新発見の実際的側面」と題して講演した。講演の後でコーネル州立農科大学のベイリーが、六月に発行されたベーツソンの著書"Mendel's Principles of Heredity: A Defence"を紹介し、植物育種における教科書にするよう勧めた。つづいて演壇に立ったベーツソンの同僚のハーストもド・フリースもメンデルに集中して話した。米国育種家協会のイースト、キャッスル、C・ダヴェンポート、シャルもメンデリズムの信奉者となった。育種は一夜にして経験的技術から科学の分野へと変身した。
鵜飼保雄「植物改良への挑戦」(2005年)p.41より
¶〈試作品〉から〈新製品〉を生み出す{起業家:プロダクト・イノベーション} 〖 ⭱ 〗
{起業家:プロダクト・イノベーション}
ダブル・クロスを確立したイーストとジョーンズは1919年にフィラデルフィアの出版社リッピンコットから実験生物学叢書の一冊として「自殖と他殖:その遺伝的・社会的意義」 "Inbreeding and Outbreeding: Their Genetic and Sociological Significance"と題する写真やイラスト入り320頁の本を出版しました。2020年現在、すでに著作権が切れてパブリックドメインになっていますので、興味深い図版を3枚引用します。いずれも当時の農業関係者が驚きをもって眺め、ハイブリッド技術への期待をおおいに膨らませたであろうことが想像できます。
11世代にわたって自殖を重ねて形質がみすぼらしく劣化した二系統の親たちの間に生まれるF1が驚くべき堂々たる立派な形質を発現することを示しています。つまりF1を作る元になる親の種子を大量に生産するのは難しいことを示しています。
これはF1のトウモロコシがいかに実のサイズも草丈も均一になるかをまざまざと示しています。だからF1の種子は大量に生産できるのです。
そしてこれは異なる系統の二つのF1の間に誕生するダブルクロスでもF1にさほど見劣りしないことを示しています。これぞ現実的なハイブリッド・コーンだというわけです。
ダブル・クロスのハイブリッド・コーンなら種子を大量に生産してトウモロコシ農家に手頃な価格で売ることができるはずだ、ということで起業家たちがうごめき始めて、まずはダブル・クロスの種子の製品化競争が始まります。久野(8)に掲載されている「米国におけるトウモロコシ種子会社の設立・再建件数(1925~95年)」のグラフの一部分を再構成して以下に示します。1935年までに100社もの種子会社が創業していることがわかります。
ネブラスカ州のホーゲマイヤー・ハイブリッド社のトーマス・ホーゲマイヤ博士がまとめた資料(4)では、真っ先に動き出した起業家:Entrepreneursとして以下のような名前を挙げています。
1920:Henry A. Wallace→1926:Pioneer Hi-Bred社設立
1925:Roberts & Gunn—DeKalb Agricultural Association
1925:Holbert & Funk Brothers Seed Company→1934:ハイブリッド種子発売
1925:Lester Pfister→1936 Pfister Seed社設立
この中でもHenry A. Wallace:ヘンリー・ウォレスがハイブリッド・コーンのベンチャー第一号だったことは衆目の一致するところです。
農場経営の家庭に育ったウォレスは高校時代からトウモロコシの栽培に興味をもち、1910年にアイオワ州立大学を卒業するや統計学や遺伝学の知識を生かした科学的な品種改良実験を開始します。1920年にコネティカット農業試験場のイーストとジョーズを訪問したのを切っ掛けにハイブリッド・コーンの育種を始めます。まさに「発明家」から「起業家」にバトンがリレーされた瞬間でした。1923年にはCopper Cross:コッパー・クロスと名付けた高収量のハイブリッド・コーンの開発に成功し、1924年に州のトウモロコシ収量コンテスト(Iowa Corn Yield Tests)でハイブリッドとしては初の金賞を獲得するのです。(この段落は主に後にウォレスが創立するパイオニア社のWebサイトより要約引用)
以下はおもにSutch(7)によりますが、そもそもアイオワ州の収量コンテストは1920年にウォレスが州政府を口説いて始まったコンテストでした。それまではトウモロコシの実の美形コンテストだったのをエーカー当りの収量コンテストに改めさせたのでした。とはいえ、ウォレス自身の実績は、1920年は種子の量が足りずに不参加、21年は放任受粉品種に負け、22年と23年は新作のコッパー・クロスで臨むもやはり放任受粉品種のベストには及ばず苦戦が続きます。そして1924年についに金賞受賞となり、Iowa Seed Companyと販売契約を締結し、わずか15ブッシェルですがハイブリッド種子をアイオワなどの農家に米国で初めて販売したのでした。
ウォレスは、1921年に父や祖父のあとを継いでWallaces’ Farmerというトウモロコシ農家と養豚家向けの新聞の編集長に就任し、発行部数65,200(1920年)の力で、早くからハイブリッド・コーンの素晴らしさを熱心に訴え続けていたといいます。
コッパー・クロスを発売した時に自分で書いた宣伝文句もまさに熱狂的でした:
An Astonishing Product—Produces Astonishing Results … If you try it this year you will be among the first to experiment with this new departure, which will eventually increase corn production of the U.S. by millions of bushels
1926年には今日にまで続くPioneer Hi-Bred:パイオニア・ハイ・ブレッド社(今はデュポン・パイオニア)を設立しています。ウォレスは後に父Henry C. Wallace(農務長官1921-1924)同様に政界に転出し農務長官・商務長官を経てフランクリン・ルーズベルト大統領のもとで副大統領を務めた点でも異色の起業家でした。
ダブル・クロスのハイブリッド・コーンの種子生産が本格的な産業になったのは意外に遅く約10年後の1936年以降だったと考えられています。以前引用した経済学者グリリカスのグラフもその判定を裏付けているように見えます。
Sutch(7)は普及がすぐには立ち上がらなかった原因を幾つかあげています。一つ目は、価格でした。ウォレスのコッパー・クロスの値段が(特別な種子なのだということを農家に信じてもらうために意図的に)驚くほど高く設定されたのです。ハイブリッドの研究開発投資の資金を得るという名目もあったとはいえ。二つ目は、旧来の慣習を捨てる抵抗感です。トウモロコシ農家は自前の種子を使うか、あるいは、たまになじみの種子商人から買うという長年の慣習にどっぷり漬かっており、ハイブリッドに乗り換えると毎年種子を仕入れなければならないことに抵抗感があったこと。実った種子を翌年に蒔いてはダメというのは特に受け容れがたかったこと。さらに、自家採取した種子から優れたもの選別して見せることが栽培家としてのプライドだったのに、その作業はもういらないと言われて不愉快だったこと。そういう慣れ親しんだ過去と決別するのが辛かったということです。三つ目は、メンデルの法則などの科学的理屈が当時の農民や種子商人の常識では理解できなかったこと。
1929年からの大恐慌もハイブリッドの普及には大きな抵抗になりました。トウモロコシ価格の下落が農場経営を追い詰め、新品種への転換を考える余裕を奪います。
もうひとつ、アイオワ州においては放任受粉のトウモロコシでも意外に生産性が高かったこともハイブリッドの普及の突破口が開けない原因になっていました。
ウォレスが提唱して始まったアイオワ州の収量コンテストの1926年から1933年までの記録(上の表:Sutch(7)から引用)を見ると、ハイブリッドの優位性はほぼ9%にとどまっています。15%~20%という謳い文句はこの期間においては明らかに誇張でした。これに種子価格の値段の高さを加味すると、経済的メリットはさほど大きくなかったと考えられるのです。
しかしこの助走期間は、その後の業界が離陸するための仕込み期間だったとも言えます。純系を商品化するには最低でも4-5年かかると言われます。多様な純系資産の上にF1資産を開拓し「原々種」(Foundation seeds)として蓄積するのにも長い年月が必要なのです。
¶主な参照文献 〖 ⭱ 〗
(1)遺伝学の泰斗J・F・クロー(James F. Crow)が1998年に米国遺伝学会のGENETICS誌に寄稿した「90年前:ハイブリッド・コーンの始まり」("90 Years Ago: The Beginning of Hybrid Maize" GENETICS March 1, 1998 vol. 148 no. 3 923-928)
(2)George Harrison Shull “The composition of a field of maize” Am. Breeders Assoc. Rep. 4: 296–301 (1908)
(3)J・F・クロー「遺伝学概説 第8版」(木村資生・太田朋子 共訳 1991年)
(4)Thomas Hoegemeyer "History of the US Hybrid Corn Seed Industry"
(5)East, E. M., and D. F. Jones, 1919"Inbreeding and Outbreeding: Their Genetic and Sociological Significance". Lippincott, Philadelphia
(6)鵜飼保雄「植物改良への挑戦[メンデルの法則から遺伝子組換えまで]」2005年
(7)Richard Sutch "The Impact of the 1936 Corn Belt Drought on American Farmers’ Adoption of Hybrid Corn", May 2011
(8)久野秀二「アグリビジネスと遺伝子組換え作物―政治経済学アプローチ」2002年
(9)USDA "The Seed Industry in U.S. Agriculture: An Exploration of Data and Information on Crop Seed Markets, Regulation, Industry Structure, and Research and Development" 2004
(10)Pioneer社webサイト "History of Pioneer"
(11)William L. Brown "H. A. Wallace and the Development of Hybrid Corn" 1983